博報堂には84年に入社しました。映画監督になりたかったのですが、この時期は日本映画がもっとも元気がないときだった。42歳の監督がデビューして期待の新人と言われていました。これは大変だ。23歳の若者にとって40歳は途方もなく遠く感じますからね。20代では何もやらせてもらえないに違いない。とにかく早く自分で何か作りたかった。短くてもいい。文学部の学生にとって、監督をやりたかったら、映画会社かテレビ局でドラマの制作をするというのが一番わかりやすいコースだった。当時、映画は年間70本製作されていて、そのうちの半分は日活ロマンポルノ。CMは1日600本流れている。CMだったらもっと早く監督ができるんじゃないだろうか。それで博報堂に入りました。